横浜地方裁判所 平成9年(ワ)4160号 判決 1999年3月30日
原告
沖野政則
外二名
右三名訴訟代理人弁護士
志田なや子
同
部谷真起子
被告
学校法人北里学園
右代表者理事
佐藤登志郎
右訴訟代理人弁護士
畔柳達雄
同
木崎孝
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告沖野政則に対し三〇〇万円、原告沖野賢、原告沖野幸に対し各一二五万円及びこれらに対する平成九年一二月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、再発した癌の治療のため被告の開設する病院に入院していた亡沖野順子(以下「順子」という。)に対し血管造影検査が実施されたが、順子の相続人である原告らが、同病院の医師には、侵襲性が大きく必要のない右検査を実施した過失、事前に順子及びその家族である原告らに右検査につき十分な説明をしなかった過失があると主張して、被告に対し、診療契約違反の債務不履行責任又は不法行為責任(使用者責任)に基づき損害の賠償を請求した事案である。
一 前提事実(明らかに争いがない事実以外は括弧内の証拠により認定した。)
1 当事者
原告沖野政則(以下「原告政則」という。)は、順子の夫であり、原告沖野賢(以下「原告賢」という。)、原告沖野幸(以下「原告幸」という。)は、順子の長男、二男である。
被告は、神奈川県相模原市北里一丁目<番地略>において、北里大学病院(以下「被告病院」という。)を開設し医業を営む学校法人である。
2 治療経過
順子は、平成五年一〇月二三日、神奈川県相模原市の渕野辺総合病院で右乳癌と診断され、同年一一月四日、右乳癌切除手術を受けた。順子は、術後、抗癌剤の投与を受けながら入退院を繰り返し、平成七年一二月末に乳癌が再発した。順子は同病院で治療を受けたが、同病院の医師から、癌が治癒する見込みはない、同病院ではもう取るべき手段がないと告げられた。
順子は、同病院の紹介で平成八年一月二三日から被告病院に通院し、同年二月七日に被告病院に入院した。被告病院への入院目的は、痛みのコントロール、癌の放射線治療及び再発検索であった。被告病院では、放射線治療、薬による疼痛緩和等を中心に治療がなされたが、放射線治療は同年三月五日に終了し、その後は疼痛緩和と抗癌剤の治療等が実施された。
抗癌剤の治療が最終段階にさしかかった同年五月三一日、被告病院の河野医師は、原告らに対し、「現在、癌は広がっている。癌はもろい組織で血管まで進めば、大出血を起こす。その場合止める方法はない。」旨説明した。また、順子の主治医である被告病院の石田医師は、同年六月二六日、原告らに対し、「潰瘍の底にある血管から出血した場合止めることができない。」旨説明した。
同年六月三〇日ころ、鎖骨下動脈が破裂する可能性が大きいのなら、破裂する前にステントを入れてみてはどうかという意見が出て、そのため順子に血管造影検査(以下「本件検査」という。)を実施することとなった。被告病院の医師らは、本件検査の前に、順子に対し、本件検査を行うと説明し、順子はこれに同意した。
被告病院の板橋医師は、七月九日、順子に対し、本件検査を実施した。
板橋医師は、同月一一日、原告らに対し、本件検査の実施とその目的についての説明をしたが、本件検査の前には、右の説明はしなかった。
本件検査後、順子に腎機能障害はなかった。
順子は、同月三〇日、症状の改善をみることなく苦しみながら死亡した。
3 本件検査の概要
順子に対し行った本件検査は、IVDSA(経静脈性ディジタルサブトラクションアンギオグラフィー)という方法であり、末梢静脈より造影剤を注入して、鎖骨下動脈を造影したものである。
ディジタルサブトラクションアンギオグラフィー(DSA)とは、直接撮影による血管造影に使用する造影剤の一〇パーセント以下の造影剤で血管をはっきり描出するために工夫された方法である。これまで、例えば、頭蓋骨に囲まれた部分などでは、頭蓋骨の陰影と重なって良好な対照度で血管の描出が得られなかったので、これをX線写真像上、血管を撮影したフィルムから頭蓋骨を消去する方法により、血管だけの映像を求める方法が開発され、診断に有用であった。しかし、この方法はリアルタイムで映像を求めることができない欠点があった。これをX線TV系を利用し、このTVカメラの映像を数値化することにより消去を自動化する方法である。DSAには、従来の血管造影と同様に動脈内に造影剤を注入するIADSA(経動脈性DSA)と、中心静脈または末梢静脈より造影剤を注入するIVDSAがある。後者(IVDSA)では、外来で安全に施行できる(乙第四号証、南山堂医学大辞典)。
本件の場合、最初は、前腕肘窩(通常の健康診断等で採血をする肘関節の内側の部分)の静脈から造影剤を注入しようとしたが、順子の右手は浮腫が強く、また、左手は長期の化学療法、点滴のため静脈が細くもろくなっていたので、いずれも留置針を挿入することができず、鼠径部の大腿静脈から造影剤を注入した。造影用カテーテルの挿入等はせず、四肢末梢の静脈に通常の点滴を行う場合と同様の静脈留置針を刺してルートを確保し、注入量・注入速度を調節できる造影剤自動注入器で約三〇ミリリットルの造影剤(オプチレイ三二〇)を静脈内に一気に注射して、静脈から心臓を経て鎖骨下動脈に流れてきた造影剤をX線で連続的に撮影し、これをコンピュータ処理して明瞭な動脈の情報を得た。
二 争点及び当事者の主張
1 本件検査の実施は、当初の治療目的から逸脱する不要なものであったか。
(原告らの主張)
原告らは、本件検査の直前まで、被告病院の医師から、順子の病状について、癌完治の見込みはなく、癌で血管が切れたら出血を止められず手の打ちようがないとの説明を受けていた状況下では、本件検査は必要のないものであり、本件検査の適応がなかったというべきである。
また、本件検査の侵襲性は、当該患者の個別具体的な状況から判断されるべきところ、本件検査は、初め、順子の腕の静脈に太さ二ミリメートルくらいの針を刺してルートを確保するよう何度か試したもののうまく刺すことができず、結局、局所麻酔をして鼠径部に針を刺してルート確保がなされ、鼠径部に留置針が刺されたままの状態で一〇枚ほどのレントゲン写真が撮られ、その後、抜針されたが、順子は本件検査後の出血を防止するため二時間の絶対安静を命じられた。特に、鼠径部からのルート確保は、患者の苦痛が激しく、麻酔を要するものである。このような本件検査は、乳癌末期の心身ともに消耗した順子にとっては大きな苦痛を伴い、侵襲性の低い検査であったとはいえない。また、順子には、ヨード剤注入による副作用として吐き気や食欲の低下があり、本件検査後、順子は著しく食欲が低下し、症状が悪化したのであり、副作用が全くなかったとはいえない。
さらに、順子は、本件検査後、原告らに対し、本件検査が今まで一番つらかったと涙を流しながら訴えた。順子の日記にも、本件検査について「太い注射四回したが全然だめ。足の所マスイをして行う……今日の検査が今までより一番つらかった」と記載されている。
以上のとおり、被告病院の医師は、順子に対し、原告らに説明していた治療方針を変更して、必要性なく、負担の大きな本件検査を実施したのであるから、被告病院の医師には、患者に必要以上の苦痛を与えないよう注意しながら治療にあたる注意義務に違反した過失がある。
(被告の主張)
本件検査は、次のとおり必要性があり、かつ、侵襲性も低いものであったから、被告病院の医師には、原告らの主張する注意義務違反はない。
すなわち、本件検査は、癌が鎖骨下動脈を侵食することによる突然の出血死を回避する方策をとることが可能か否か、回避策をとる必要性、適応があるか否かなどを探るために行われたもので、本件検査の必要性には問題がない。
また、本件検査は、末梢静脈から造影剤を注入するIVDSAという検査であり、血管内にカテーテルを挿入して行う血管造影検査とは全く異なり、副作用、合併症も少なく、外来でも簡単に施行できる侵襲性の極めて低い検査である。そのため、被告病院では、カテーテルを挿入して行う血管造影検査とは異なり、IVDSAの場合、患者に対し、承諾所の提出を求めていない。また、臨床において前腕肘窩でルートを確保することができない場合、鼠径部でルートを確保するということは、ごく一般的に行われていることであり、これをもって本件検査の侵襲性が高いということはできない。さらに、鼠径部からルートを確保することについては順子の承諾を得た上で、局所麻酔をして実施されている。
2 説明義務違反
(原告らの主張)
(一) 医師は患者に対し説明義務を負うから、患者本人ないし患者の家族に対し、十分な説明をして、同意を得て治療を実施すべきである(インフォームドコンセント)。このインフォームド・コンセントとは、「リスクを伴ったり、別の方法があったり、また成功率が低いような治療や処置について患者に同意を求めるにあたって、あらかじめ、しかるべき情報を提供しなければならない」ということを意味する(ジョージ・J・アナス)。
前記1で主張したとおり、本件検査によってステント挿入等の治療が必要であると判定できる可能性はきわめて低く、まさに「成功率がきわめて低い治療や処置」であるといえるし、また、本件検査による患者の負担は、軽いものでは決してないのであるから、被告病院の医師は、本件検査の必要性・効果と危険性・患者への負担、他の選択肢の有無等を十分に説明した上、患者あるいはその家族に選択の余地を与え、同意を得た上で本件検査を実施すべきであった。
ところが、被告病院の医師は、順子に対し、「血管の上に腫瘍があるので、その腫瘍に何か対処できるかもしれないから、その血管の状況を調べましょう」というようなことを説明したのみである。これでは、本件検査が何のために、どういう見通しのもとで実施されるのか、本件検査の危険性や負担はどの程度かなど、同意に必要な情報を正確に提供したものとはいえず、説明義務が十分つくされたとは到底いえない。特に、癌が血管まで進み出血を起こした場合手の施しようがないとの説明は本件検査の必要性を判断する上で決定的な事項であり、右の点についての説明の有無は本件検査を受けるかどうかの選択に重大な影響を与えるものであるところ、順子は本件検査前に被告病院の医師から右の点についての説明を受けていない。
したがって、被告病院の医師には順子に対する説明義務違反の過失がある。
(二) また、医師の与える情報によって患者が合理的な判断ができなくなるほど混乱するであろうと思われる状況がある場合には、医師は患者の家族等患者の代理人の立場にある者に対し、説明して同意を得なければならない。本件の場合、順子に「手の施しようがない」との情報を与えることが不適当であったなら、被告病院の医師らは、順子の夫である原告政則らに対し、本件検査の概要と効果、検査を行わない場合に想定される結果などについて説明し、原告らの同意を得たうえで、本件検査を実施すべき注意義務がある。
ところが、被告病院の医師らは原告らに対し、何らの説明もしないまま本件検査を行ったものであり、原告らに対する説明義務違反の過失がある。出血の可能性・危険性という患者の状況を家族に説明しながら、それと関連し、かつ、以前とは方針の異なる本件検査の実施について、何らの説明もしなくともよいとすることは、患者及びその家族の自己決定権を尊重するという今日的なインフォームド・コンセントの趣旨からはかけ離れたものといわざるを得ない。
なお、患者の生命や健康を救うために直ちに治療や検査を開始しなければならないような緊急事態がある場合には、患者の家族等に対し説明をしなくてもよいと考えられるが、本件検査にはこのような緊急性はなかった。
(被告の主張)
(一) 被告病院の医師らは、順子に対し、「右腕がむくんで痛いのは、癌の腫瘍が大きくなってきて、血管などを圧迫しているためです。腫瘍と血管の位置関係がどうなっているか調べてみて、何か方法はないか考えてみたいと思います。そのために、血管造影検査をしてみようと思います。」などと説明し、IVDSAの概略についても説明した上で、十分な判断能力を有する順子が本件検査を受けることを承諾したものであり、説明義務違反の過失はない。
被告病院の医師らは、順子に対し、癌が血管まで進み出血を起こした場合には手の施しようがないとの説明をしていないが、このような説明をすれば、延命を希望する順子が本件検査を拒絶したということは通常考えられないから、右の事実の知不知は患者の選択に重大な影響を与えるものではない。また、本件検査は、極めて侵襲性の少ない検査であり、この程度の検査をするために、癌の末期にあり、精神的なカウンセリングも受けている順子に対し、腫瘍で血管が破れる可能性が大きく、その場合には手の施しようがなく、直ちに死亡するという事実を説明するのは不適当である。
(2) 右のとおり、被告病院の医師らは、判断能力を有する患者本人の同意を得ているから、それ以外に患者の家族から同意を得る必要はない。
3 損害額
(原告らの主張)
(一) 慰謝料
順子は、不必要な本件検査の実施により、耐え難い精神的苦痛を被った。その苦痛をあえて金銭で評価するとすれば五〇〇万円を下ることはない。
原告らは、順子の右慰謝料請求権を相続により、原告政則が二分の一、同賢、同幸が各々四分の一の割合で取得した。
(二) 弁護士費用
被告は任意の賠償に応じないので、原告らは弁護士を依頼して訴えを提起せざるを得なかった。原告らは、原告ら訴訟代理人両名に対し、本訴訟提起時の弁護士費用として本訴訟請求額の一割にあたる五〇万円を支払うことを約した(これについては、便宜上、原告政則の損害として計上する。)。
第三 当裁判所の判断
一 前記第二、一の前提事実に証拠(甲第六、第八、第九号証、乙第一ないし第三、第五、第六号証、証人石田和夫の証言、原告政則本人尋問の結果)を総合すると、順子が死亡に至るまでの本件検査の実施を含む治療の経過について次の事実が認められる。
1 順子は、平成五年一〇月二三日、神奈川県相模原市の渕野辺総合病院で右乳癌と診断され、同年一一月四日、同病院で右乳癌切除手術を受け、術後、入退院を繰り返しながら、化学療法を合計八クール受けた。順子は、平成七年一二月末から右胸部発赤疼痛、右胸壁腫脹疼痛増強したため、同病院を受診し、平成八年一月六日に行われた生検の結果、右鎖骨下胸壁に癌が再発したと診断された。順子や原告政則らは、同病院の医師から、癌が再発し治癒する見込みがなく、同病院では順子に対する治療方法がないことなどを告げられた。
2 順子は、平成八年一月二三日から被告病院放射線科に通院し、放射線治療を受けていたが、疼痛増強のため通院が困難となり、疼痛管理、放射線治療、再発検索の目的で同年二月七日に被告病院外科に入院し、石田医師が順子の主治医となった。
入院時の順子の状態は、右胸部痛を訴え、右胸部に発赤、右胸壁及び右頚部にリンパ節腫脹があり、また、右鎖骨下の五ミリメートル大の生検部位からの血性浸出液が右生検以降持続していた。右上肢に運動障害があった。
順子に対する治療は、一月三〇日から三月五日まで合計二五回(五〇グレイ)の放射線治療、また、四月二四日から五月二日まで、五月二〇日から六月二日まで、六月一七日から六月三〇日まで三クールの化学療法(エンドキサンP錠、メソトレキセート六〇ミリグラム、五―FU七五〇ミリグラム。化学療法を実施するのに必要な中心静脈カテーテルは、肩からの挿入が困難なため左頚部から挿入された。)、胸部の創に対する抗癌剤(アドリアマイシン軟膏、五―FU軟膏)の塗布、疼痛緩和のための投薬等が行われた。
同年二月九日からペインクリニックによる診療が開始された。
同年二月一九日、三月二一日、四月一日、四月二〇日、二四日、六月七日には、順子の転移癌の検索のため、造影剤を使用したCT検査が実施された。
生検部位に対しては包帯交換を行っていたが、入院後も生検部からの浸出液が持続し、これに対し、皮膚片を切除するなどしたが、徐々に創の幅や深さがひろがり、血性浸出液の量も増加し、包帯交換の回数が増加していった。
同年四月二六日には、順子の精神的意欲の減退が認められ、精神科のカウンセリングを受けるようになった。
被告病院の医師は、同年六月一二日、順子の右上肢に強度の浮腫を認め、腫瘍の鎖骨下静脈への浸潤、圧迫によるものと判断した。腫瘍の深部には、鎖骨下動脈が走行しており、これが腫瘍で浸潤されると大出血になり、手の施しようがなくなることが予想された。
3 石田医師は、平成八年三月五日に、順子や原告らに対し、順子の病状や放射線治療についての説明を行い、順子や原告らの希望で渕野辺総合病院に戻らず、今後も被告病院において治療を継続することとなった。
河野医師は、同年四月二一日に、順子や原告らに対し、順子の病状や化学療法についての説明を行い、再び、化学療法を実施することとなった。
河野医師は、同年五月三一日、原告政則に対し、抗癌剤の治療効果と創出血の可能性についての説明を行った。抗癌剤の治療効果と創出血の可能性については、現在、癌は広がる様子がみられ、右胸部の穴が周囲や奥にひろがってきている。この部分は、動静脈の通路であり、現在、穴から癌で溶けた鎖骨が見えてきているが、血管の露出はない。しかし、奥にひろがれば、出血が考えられ、出血した場合には、誰にも止めることはできず死に至る旨説明された。これに対し、原告政則は、何か方法がないかと尋ねたが、現代の医学では手の施しようがない旨説明された。
石田医師は、同年六月二六日、原告らに対し、「潰瘍の底にある血管から出血した場合、止めることができない」とこれまでの治療と現状についての説明を行った。これに対し、原告政則は、延命の効果があると信じるリンパ球療法(他人のリンパ球を癌患者に投与する免疫療法の一種。北里大学病院では行われていない。)の許可を求めた。石田医師は、リンパ球療法は、保険の対象ではなく、その効果、安全性を認める客観的なデータがなく、危険性も指摘されており、疑問のある治療法であるが、原告らの希望が強く、納得のためにリンパ球療法の治療を許可した。リンパ球療法は同年八月一日から実施されることとなったが、その前に順子が死亡したため実施されなかった。
4 平成八年六月三〇日ころ、被告病院の血管外科の医師から、鎖骨下大動静脈が破裂する危険性が大きいのであれば、破裂する前にステント等を入れてみてはどうか、そのためには、まず、血管の走行を見るために本件検査を実施しなければならない旨の意見が出され、血管の位置関係を確認するために本件検査を実施することとされた。
被告病院の医師が、順子の出血を予防する手段として想定したのは、血管バイパス手術と血管内ステント挿入である。血管バイパス手術とは、出血部を結紮して、これを人口血管に置き換えるという治療方法であり、また、血管内ステント挿入とは、主として動脈瘤の破裂の予防に使用される新しい治療方法で、カテーテルを用いて血管内に人口血管を入れて、その部分を人口血管に置き換えるという治療方法である。いずれの治療方法もかなり難しい手術である。
5 被告病院の板橋医師は、同年七月四日ころ、順子に対し、「右腕がむくんで痛いのは、癌の腫瘍が大きくなってきて、血管などを圧迫しているためです。腫瘍と血管の位置関係がどうなっているか調べてみて、何か方法はないか考えてみたいと思います。そのために、血管造影検査をしてみようと思います。」などと話し、さらに本件検査の概要について説明したところ、順子は、本件検査を受けることを承諾した。なお、本件検査の実施方法について留置針を前腕静脈に挿入することができない場合には、鼠径部の大腿静脈に挿入することになるとの説明はなかった。また、本件検査前に原告らに説明はなかった。
順子の日記には、「腕の所が炎症を起こしているので来週にでも血管造影をしてみる。でないと血管に血が通わなくなってしまう。」「今日は今までにないぐらい腕の圧迫感があり本当につらい。」と記載されている。
6 平成八年七月九日に次のとおり本件検査が実施された。
本件検査は仰向けに寝ている順子の前腕肘窩の静脈に留置針を挿入して造影剤を注入して行われ、一五分程度で終了する予定であったが、順子の左手静脈は長期の化学療法、点滴のために細くもろくなっていたので、左前腕に留置針を四回刺したが静脈に挿入することができず、そのため、通常、ルート確保に使用される鼠径部に留置針を挿入することとし、局所麻酔(キシロカイン一パーセント一〇ミリリットル)を行った上で、右鼠径部の大腿静脈に静脈留置針を刺してルートを確保し、注入量・注入速度を調節できる造影剤自動注入器で約三〇ミリリットルの造影剤(オプチレイ三二〇)を静脈内に一気に注射して、静脈から心臓を経て鎖骨下動脈に流れてきた造影剤をX線で連続的に撮影し、撮影後、留置針を抜針した。順子は、本件検査後、穿刺部の内出血の防止のため、一時間は右下肢を屈曲しないように指示された。鼠径部に血腫はなく、また、出血もみられなかったので、下肢動脈循環に問題なしと判断された。
順子は、本件検査当日の夜、面会に来た原告政則に対し、太い注射を何度も刺されて痛かった、長い間寝ている体勢がつらかったといって泣いていた。順子の日記にも、本件検査につき「太い注射四回したが、全然だめ。足の所麻酔をして行う。」「今日の検査が今までより一番つらかった。頑張らなければ。」と記載されている。
被告病院の看護記録(乙第二号証三七八頁)には、同年七月九日午後三時三〇分の欄に、「たくさん刺されたわ」との順子の発言と、「数回穿刺されたことがショックだと、少々涙流している。」との看護婦が観察した順子の様子が記載され、同日午後九時の欄に、「今日は疲れました」との順子の発言と、「検査後ぐったりしており、いつもの笑顔みられず。」との看護婦が観察した順子の様子が記載されている。
7 本件検査の結果、腫瘍が鎖骨下動脈を圧迫していたが、近い将来大きな血管から出血する可能性は少ないとの所見が得られ、血管バイパス手術や血管内ステント挿入を行う適応にはないと判断された。
被告病院の板橋医師は、同月一一日に、原告政則及び原告賢に対し、病状の説明と本件検査の実施とその結果について、次のような説明を行った。血管には動脈と静脈があり、動脈は壁が厚いが、静脈はもろく直ぐにはじけてしまう。血管が破れて出血したら手の施しようがなくなるので、それを予防する手段が取れるかどうかを調べるために本件検査を実施したが、今のところ大丈夫であると説明をした。
8 本件検査の前後で、順子の尿量、BUN(尿素窒素)、クレアチニン値には特に変化がなく、造影剤の副作用と考えられる腎機能障害は認められなかった。痛み止めの塩酸モルヒネを増量した副作用のため七月一一日ころから傾眠傾向が強くなった。七月一四日には、左鎖骨下に中心静脈カテーテルを挿入し、抗生剤を投与するようになった。順子は、七月一六日個室に移動し、板橋医師は、同月、原告政則らに対し、順子の全身状態が悪化してきた現状について説明した。その後、三七度台の熱発、便秘、全身浮腫、低蛋白血症がみられ、順子は、平成八年七月三〇日に死亡した。
二 争点1(本件検査の必要性)について
1 本件検査当時の順子の状態は、腫瘍の鎖骨下静脈への浸潤、圧迫によると思われる右上肢の浮腫がみられるようになり、腫瘍が鎖骨下動脈に浸潤した場合、手の施しようのない大出血によって死亡に至る可能性があると判断されていたこと、被告病院の医師らは、これを防止する手段として血管バイパス手術や血管内ステント挿入の処置を考え、右の処置の適応の有無について調べることを目的として本件検査が実施されたこと、本件検査の結果、右処置の適応が認められなかったことは、前記一で認定したとおりである。
右認定事実によれば、本件検査当時には、右処置の適応にあるか否かが不明の状況にあり、それを調べるために本件検査を実施したのであるから、本件検査当時において、本件検査の必要がなかったものとはいえない。
また、前記一の事実によると、平成八年六月二六日の時点では、原告らは、順子の病状につき、突然の大出血には対処する手段がないことを前提とした説明を受けていたことが認められるものの、この時点で、順子に対する延命治療を放棄し、治療方針を疼痛緩和のみに限定する旨の明示又は黙示の合意が成立したものとは認められない。かえって原告政則は順子に対する免疫療法の一種であるリンパ球療法の施行を強く希望しており、また、順子本人も積極的に治療を受ける態度を示していたのであるから、右の時点での順子に対する治療方針が単なる疼痛緩和に限定されていたとは認められない。
さらに、本件検査の侵襲性の点についてみると、前記一の事実によると、左前腕に四回刺されたが、挿入することができず、局所麻酔をして鼠径部への穿刺によって実施されたのであるから、当初予定されていたよりも順子によっては苦痛が大きかったといえるが、長期入院していた順子の状態からすると、留置針の挿入がうまくいかず前腕に四回穿刺することとなったのもやむを得ないものといえ、また、鼠径部に穿刺することについても、鼠径部は通常ルート確保に使用される部位であり、鼠径部への穿刺にあたっては局所麻酔が使用されたこと、本件検査及びその後の安静は長時間にわたるものではないこと、さらに、麻酔を使用して実施されたものと認められることからすると、本件検査が順子にとって侵襲性の大きな検査であったとまではいえない。
したがって、この点についての原告らの主張には理由がない。
三 争点2(説明義務違反)について
1 医師の説明義務及びその内容について
医師は、診療契約に基づき患者に対し診療債務の内容の一つとして説明義務を負うものと認められる。そこで、本件の場合、本件検査について事前に検査の内容、検査に伴う危険性等について十分な説明がなされたか否かにつき検討する。説明義務違反の存否は、医的侵襲に対する承諾の有効要件に関連して問題となる。
患者の同意を得るために説明すべき内容ないし説明義務の範囲については、医学的知識を十分有しない患者に対して、患者の現在の病状、医的侵襲の程度、部位、範囲、方法及びその結果、予想される危険、それを実施しないときの予後等を理解させ、理性的な判断をさせるに必要な事柄がその対象となると一般的にはいえるが、その具体的な内容については、個別の状況に応じて、専門家としての医師の裁量的判断と患者の自己決定権の尊重との調和の観点から判断すべきものと考える。
また、右説明の相手方については、患者の自己決定権保護の理念からいって、原則として、患者本人に対してなされるべきである。患者本人が、承諾の能力を欠く場合には、これに代わって承諾をなし得る者に対して説明義務を負うことになるものと考える。
2 順子本人に対する説明義務違反について
前記一で認定したとおり、本件検査の目的は人口血管手術や血管内ステント挿入の適応にあるか否かを調べることにあったが、被告病院の医師らは、順子に対し、右の事実を正確に説明せず「右腕がむくんで痛いのは、癌の腫瘍が大きくなってきて、血管などを圧迫しているためです。腫瘍と血管の位置関係がどうなっているか調べてみて、何か方法はないか考えてみたいと思います。そのために、血管造影検査をしてみようと思います。」などと説明したこと、また、順子の日記には、「腕の所が炎症をおこしているので来週にでも血管造影をしてみる。でないと血管に血が通わなくなってしまう。」と記載されていることが認められ、これによれば、順子は、被告病院の医師の説明によって、現状の腕のむくみの原因は炎症であり、このまま放置すると、血管に血が通わなくなるものと理解し、それを予防するために本件検査を受けることに同意したものと認められる。
他方で、本件検査はカテーテルを挿入して行われる血管造影検査と比べると、その侵襲は軽微であるということができ、また、順子にとっても本件検査の侵襲性が大きいものとはいえず、この程度の本件検査を実施するために、末期癌で入院中の順子に対し、血管が破れた場合には大出血を起こし手の施しようがなく急死するということまで説明することが適当であるとはいえない。また、被告病院の医師の説明内容は血行障害があることを指摘するものであり、本件の場合、現実に大出血の危険性が存在していたのであるから、全く虚偽の内容ともいえない。さらに、前記二で認定したとおり、血管内ステント挿入等の処置の適応の有無について判断するには、本件検査が必要であったことが認められる。
以上の事情を総合すると、被告病院の医師らは、順子に対し「癌が血管まで進み出血した場合には急死する」との説明をしなかったのは事実であるが、これは本件検査による侵襲が軽微であり、順子にとっても侵襲性が大きいとはいえないこと、末期癌の患者に、右のようなことまで説明することはむしろ不適当であること、本件検査の目的として血行障害を予防するためのものであると説明したこと、本件検査の必要性があったこと等によるものであって、医師の裁量的判断と患者の自己決定権との調和の観点から総合的に判断すれば、本件の場合においては、被告病院の医師が順子に対し行った程度の説明で足りるものというべきであり、順子に説明したうえ、さらに原告らに対し本件検査について説明を行い同意を得て本件検査を実施しなければならない注意義務があったとまでは認められない。
なお、原告らは、本件検査の実施方法として、当然、鼠径部へのルート確保の可能性を予想できたのに、この点について事前に説明しなかった点も問題とするが、穿刺の部位は異なるが、本件検査の実施方法に大きな差異はなく、鼠径部は通常ルート確保に使用される部位であって、鼠径部に穿刺する場合には局所麻酔を施すのであるから、鼠径部へのルート確保の可能性について説明すべきであったとまでは認められない。また、本件全証拠によるも、順子が本件検査の実施にあたって鼠径部へのルート確保を拒絶していたことを窺わせる事情が認められないのであるから、本件検査の時点において、順子に対し、鼠径部への穿刺の点について説明して承諾を得て実施されたものと推認される。
したがって、被告病院の医師らは、順子に対し、医的侵襲を伴う本件検査を実施するにあたり、その前提としての承諾を得るために必要とされる説明を行ったものと認められるので、被告病院の医師には順子に対する説明義務違反の過失は認められない。
3 原告らに対する説明義務違反について
前記2で認定したとおり、被告病院の医師らは、順子に対し、その同意を得るための説明義務を履行し、本件検査の実施に関する順子の承諾を得ているのであるから、それ以外の原告らに対する説明義務を負うものとは認められない。
これに対し、原告らは、順子に「手の施しようがない」との情報を与えることが不適当であったなら、被告病院の医師らは、原告らに対し、本件検査の概要と効果、検査を行わない場合に想定される結果などについて説明し、原告らの同意を得たうえで、本件検査を実施すべき注意義務があると主張し、甲第一〇号証の1(医師作成の意見書)には、患者の大変な状況を家族に説明しながら、血管造影検査の必要性・適応・危険度・検査から得られるであろう情報で、患者にどのようなプラスもたらすかなどを家族に説明しないのは、インフォームド・コンセントの今日的な認識とはかけはなれているとの記載がある。
前記2で認定したとり、順子本人に対して、本件検査の目的を正確に説明することが適当ではないから、この点につき、順子の家族に説明することが望ましいものということができるが(事後には原告らに説明されている。)、本件検査の結果、血管バイパス手術や血管内ステント挿入の適応があると判断され、こうした身体に対する侵襲の大きい処置を実施する場合であれば格別、侵襲性が比較的軽微といいうる本件検査自体を実施するにあたって、患者本人に対する説明とこれに基づく同意が得られた場合に、さらに患者の家族である原告らに対してまで本件検査前に本件検査の目的等について説明すべき義務を負うとは認められない。
したがって、原告らの説明義務違反の主張は理由がない。
四 結論
以上の次第で、原告らの請求はいずれも理由がないから、棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官日野忠和 裁判官三木勇次 裁判官橋本修)